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漫画、音楽、そしてアイドル。中野ロープウェイ店主・イトウ氏のサブカル四十年史

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2019.6.3

サブカルチャーの聖地・中野ブロードウェイ。その地下1階で”アイドルに愛される雑貨店”中野ロープウェイは営業している。

ファンが集う店はたくさんあるが、アイドル本人が日常的に訪れるお店は中野ロープウェイくらいではないか。著名なアイドルも足を運び、いまや「アイドルのメッカ」として界隈で高い知名度を誇っている。足しげく通う熱狂的なファンも多く、中野ブロードウェイ内でも異彩を放つ店舗だ。

同店舗を経営するのがイトウ氏である。彼はいかにして中野ロープウェイを開いたのか、なぜアイドルに愛されるようになったのか。

お話を伺ううちにだんだんとディープなカルチャーに話題が変遷したので、今回は「サブカル四十年史」と題して、イトウ氏の人生とともに漫画、音楽、アイドルのカルチャー遍歴をさらってもらった。

(撮影 酒井 拓人)

イトウ氏が語るサブカル四十年史 〜漫画体験〜

中野ロープウェイというお店に限った話じゃないんですが、僕は本当に何もしてないんですよ。

僕は自分の人生をすべて運でやってきていて。渡辺美奈代さんに「神様のタイミング」っていうタイトルの曲があるんですが、自分の人生はぜんぶ神様のタイミングに支配されていて。中野ロープウェイは自分の人生にこれまで起こった神様のタイミングが重なって、それがたまたまお店という形になっただけです。

そんなこと言っても少しぐらいは自分で選んだりしてきたんじゃないの?って思われるかもしれないけど、自分で選んだものは本当に何もないですね。自分が選んだと思い込んでいたものも、たまたま神様のタイミングで自分の手元にたどりついてくれたというだけで、とにかく運が良かっただけなんです。

ただ単に運がよかったり神様からの贈り物でしかなかったんだ

たとえば、僕の人格形成においてかなり大きな位置を占めている漫画の趣味も、ぜんぶ自分の審美眼で選んできたと思ってたし、そういう自分のセンスみたいなものをとても誇りに思って、自信を持ってた時期もあったんです。

これも全部、ただ単に運がよかったり神様からの贈り物でしかなかったんだってことに、最近になってようやく気づいたんですよね。それを自分のセンスだと思って、いまよりもずっと若いころはかなり傲慢だったと思います。

小学生なのに、ずっと「死」を隣に意識して生きていました

そもそも、僕が人よりも熱心に漫画を読むようになったのは、僕が小学生のころに小児喘息という病気を持っていて、それがけっこう重い症状のものだったからなんです。

気圧が変化する4月や10月なんかは、とくに呼吸ができなくなるくらい悪化して、学校を10日くらい休んだりもしてたくらいで「サルタノールインヘラー」っていう吸入器が手放せなかったんです。

お医者さんからは「使いすぎると心臓に負担がかかって死ぬからね」とか言われていて。震え上がりながら吸引していましたね。

だから小学生なのに、ずっと「死」を隣に意識して生きていましたし、吸入器なしでは生きていけない自分のことを「弱者」なんだと思っていました。そのころの名残なのか、今も「死」は自分にとって2番目に怖いものなんですよね。一番怖いのは「痴漢の冤罪」ですけど。痴漢の冤罪は本当に怖いですね。

僕が本当に好きだった漫画は、なぜかことごとく3巻以内で打ち切られる

漫画を読むようになったのは、身体が弱くて室内で遊ぶしかなかったからなんです。あと、親が頑なにファミコンを買ってくれなかったから、選択肢が漫画しかなかった。

「ファミコンを買ってもらえなかった家で生まれ育った」という、小学生のころの自分の意志では選択も変更も決定もできない環境的要因で漫画にハマったんです。つまり、自分で選んだんじゃないんですね。選ばされた。というより、与えられたというか。

当時は週刊少年ジャンプ全盛で「北斗の拳」や「キン肉マン」、「Dr.スランプ」なんかが流行ってて、もちろん好きで読んではいたんですけど、僕はもう少しオルタナティブな漫画のほうにハマっていました。

江口寿史の「ひのまる劇場」とか、荒木飛呂彦の「魔少年ビーティー」、車田正美の「男坂」みたいな、いわゆる「じゃないほう漫画」ですね。あとは富沢順の「ガクエン情報部H.I.P.」とか、あろひろしの「とっても少年探検隊」とか。で、そういう僕が本当に好きだった漫画は、なぜかことごとく3巻以内で打ち切られるんです。

当時からつい最近までは「売れないこと」に何かを感じていたし、自分はマイナー趣味だからこういうものに反応するんだろうって思ってたんだけど、これも、よくよく考えたら自分のセンスで選んだからそうなったんじゃないんですよ。順序が逆なんです。

週刊少年ジャンプっていう自分の手が届かない領域があって、そこでは勝手に「打ち切り」とか「連載継続」とか決定されていく。自分には、そのジャンプ編集部の気まぐれをどうすることもできない。人気とか売り上げを左右する存在にはなれない。完全に無力なんです。その無力さをつきつけるように、好きな漫画が打ち切られていく。

だから自分にはマイナー趣味があるんじゃなくて、気まぐれなジャンプの打ち切り基準によって「売れないもの」を好きになってしまう自分や、マイナー趣味というものを与えられただけなんじゃないかな、と思うんです。

だから、僕が自分の力で手に入れたと思い込んでいた”センス”っていうのは身体が弱かったということ、ファミコンを買ってもらえなかったということ、ジャンプ編集部の趣味がよく分からなかったこと。

この3つの不思議な理力が複合的に絡み合って、避けようもなく自分に暴力的に振るわれた結果、生じたものでしかなくて、そこには自分の意志も選択もないんです。

で、僕はこの幼少期に神様から与えられた乱雑なプレゼントのおかげで、今の今までやってこれてるんですけどね。

「僕も漫画を描いて雑誌にしたいなぁ」って

そういえば、僕は「ドラえもん」の「週刊のび太」という「のび太がドラえもんの道具を借りながら雑誌を作る」っていう話に影響をすごく受けて、それで「僕も漫画を描いて雑誌にしたいなぁ」って思った時期があるんですよ。

それで漫画を描きはじめました。Gペンを買って、枠線がにじまないように定規に一円玉貼り付けたりして。参考にしたのは、鳥山明の「ヘタッピ漫画研究所」です。僕ら世代のバイブルですよ。

藤子不二雄の「少太陽」にならってペンネームを複数用意して、それぞれ画風を変えながら描いてホッチキスでまとめてました。折り紙を付録に付けたりして。近所に住んでた親戚に好評でしたね。

でもね、1つ下の弟の絵がものすごく上手かったんですよ。だから「俺、才能ねぇなぁ~」と思いながら、劣等感を抱きながら絵とかマンガを描いていました。ところがですよ。その弟が「おれはお兄ちゃんから絵の描き方を学んだ」っていうんですよ。

僕と弟とで、絵の描き方が入れ替わってしまったんですね

5歳くらいのときかな、絵を描いていたら弟に頭を殴られたことがあったんです。

僕は弟の肌色のクレヨンを使って画用紙いっぱいを塗りつぶしながら、「線」ではなくて「面」を意識して人の顔を描いていたんです。そしたら、それを見た弟が「自分のクレヨンにいたずらをしている!」と誤解したらしく、それで動揺して、頭をぶん殴ったわけ。

僕はもう、ただただビックリするばかりで、それにメチャクチャ痛かったからその場から走って逃げたんですけど、弟は、そのとき僕の頭を殴りながら「あ、輪郭なしで人の顔って描けるんだ」って初めて知ったらしいんですね。

それから、弟の絵はどんどん上達して、学校で一番絵がうまくなって、芸大に進学してデザイナーになって藤本美貴のCDのジャケットとかつくってましたね。で、僕の方はというと、弟に殴られた恐怖体験から、線画しか描けなくなりました。僕と弟とで、絵の描き方が入れ替わってしまったんですね。

だから、自分の絵のスタイルも、自分のセンスで選んで描き続けてきたと思ってきたけど、弟に殴られるという経験に影響されて選ばされたスタイルでしかないんですね。「弟にいきなり殴られる」という神様ギフトの影響で勝手に定まってしまった自分の絵のスタイルを、今ではかなり気に入ってます。

漫画で声出して笑ったのって「伝染るんです」以外だと「3年奇面組」の変態水泳実習の回くらい

中学生になってからも漫画は描きつづけてたんだけど、弟に対するコンプレックスで小学生のころほどの情熱は注げなくなっていましたね。

高2のときに漫画を描きたいという欲望が再燃するんだけど、そのためには、吉田戦車の「伝染るんです」との出会いが必要でした。

それまで漫画を読んで笑うことって全然なかったんですけど、「伝染るんです」は声を出して笑ってしまいました。かなり衝撃的でしたね。すぐに既刊の「戦え!軍人くん」と「鋼の人」も買いましたね。

吉田戦車はそれまでの「不条理四コマ」と全然違っていて、オチが1コマ目にあったりして型破りなのにどこか叙情的な感じもあって、結果的に笑っちゃうんですよ。

漫画で声出して笑ったのって「伝染るんです」以外だと「3年奇面組」の変態水泳実習の回くらいじゃないかな。

それで、四コマなら自分でも描けそうだな、と思ってまた漫画を描き始めました。好きだった岡村靖幸の曲名から借りて「かるあみるく」っていうペンネームで「手塚治虫のウソ伝記」とか「殺人アイドルの話」とか「まんが道のスピンオフ」とか、自分なりの不条理漫画を勝手に描いてましたね。

漫画は今でもたまに描きたくなるし、描いてますよ。毎年春になると赤塚賞に応募したくなりますね。

「イトウくん、女性器を見たことがあるかい?」と言うんです

高校3年生になったとき、よりディープな漫画にハマりました。そのきっかけになったエピソードがあるんですけれども、これは、僕が漫画というものをセンスで選んだのではなくて、ほとんど事故的に出会ってばかりいるということをもっとも象徴する出来事かもしれません。

ある日の放課後、ミニストップのイートインで、友達の加藤くんと、いつものようにアイスを食べてたんですよ。そしたら、加藤くんが唐突に「イトウくん、女性器を見たことがあるかい?」と言うんです。僕は「え!」と思って、当時はもちろん童貞だし「ないよ!」と答えたんですけど、その返答を聞くや否や、加藤くんがミニストップから出て行ってしまったんですね。

「一体どうしたんだろう。女性器見たことあるよ、と答えた方がよかったのかな」とか悶々と考えてたら、しばらくして、加藤くんが真っ赤な車に乗ってミニストップの駐車場に戻ってきたんですね。彼は家がお金持ちで、18歳なのに免許も車も持っていたんです。

で、なんの説明もなく「乗れ」っていうから、「なんだ急に……」と訝りながら車に乗り込むとどんどん田舎の方に車を走らせていくわけです。「なんなの?」と聞いても「いいから」としか答えてくれなくて終始黙り込んでる。

ちょっと怖いな、と思っていても自分は助手席に座っていることしかできなくて。すると、だだっ広い駐車場に車をとめて「ついたぞ」と。そこにはログハウスみたいな建物があって、階段をのぼった2階の入り口をあけたら、書店だったんです。

それは“遊べる本屋”で有名なヴィレッジヴァンガードの3号店だったんです。1・2号店が実験的な小規模店舗だったから、実質1号店ですね。

加藤くんに「ついてこい」って言われるままにどんどん奥に進んでいくと、洋書のコーナーに連れていかれました。で、加藤くんが手に取って僕に見せてくれた写真集が、女性器の写真だけを集めた写真集だったんです。手が出る値段じゃなかったから、僕らは、その女性器の写真集を無言で立ち読みしつづけました。

僕は女性器の写真集だけでもかなり満足していました。すごいものを見たな、と初めて見る女性器に圧倒されて興奮もしていましたし。でも、せっかく来たんだからなんか買おうということになって、そのとき、何気なく手に取ったのが、根本敬の「亀ノ頭のスープ」だったんです。

今まで読んできた漫画とは、もう完全に異質ですよね。特殊漫画というくらいですから。

それで、なんだこの漫画は、と思って調べていくうちに、蛭子能収とか山田花子、丸尾末広を知って、いわゆる「ガロ系」の漫画にハマっていくんです。でもやっぱり、特に根本さんにハマって「因果鉄道の旅」に決定的な影響を受けました。世の中の見過ごされているようなボケに的確にツッコんでいく根本さんの姿勢がたまらなかったですね。「世の中にはまだこんなに楽しいことが、こんなにたくさんあるんだぞ」と言われたような気がしました。啓発されましたね。

でも、これも「女性器」に導かれなかったら、僕は根本さんの本とはあのベストのタイミングでは出会えなかったんです。僕が自分で根本さんを選んだんじゃなくて、女性器が僕と根本さんの間にたってくれて、女性器が僕に根本さんを紹介してくれたんだと思っています。女性器には感謝してもしきれないですね。

イトウ氏が語るサブカル四十年史 〜音楽体験〜

プロのアーティストよりアマチュアのほうが、面白いなと感じたんです

音楽は、小学校高学年から中1くらいで決定的な出会いがありました。

ちょうどバンドブームで、初めてロックに触れたんです。ブルーハーツやBARBEE BOYS、BOOWY、BUCK-TICK、などの日本のバンドを聴くようになったのがこの時期。Bで始まるバンドが好きでしたね。その流れで中学3年生の頃、平成元年に「三宅裕司のいかすバンド天国」が始まったんです。

御多分に洩れず、僕もテレビで見ていました。それまで聴いていたプロのアーティストよりアマチュアのほうが、面白いなと感じたんですね。

アマチュアバンドの情報がたくさん載ってた「宝島」という雑誌を読むようになって「ナゴムレコード」というインディーズレーベルを知ったのもこのころ。イカ天にも出演していた、たまとかマサ子さん、人生にもハマりました。

当時の宝島って、毎週ナゴムレコードの通販のページが載っていたんですよ。そこで筋肉少女帯のナゴムベストを買ったのを覚えています。でも注文してから届くまでに半年くらいかかったんですよね。ようやく手元に来たころには、ミンカパノピカとかカステラにハマってて「あぁそういえば筋少買ったな」って。

当時はたぶん、ケラさんが自分で袋詰めとか発送してたんじゃないかな。宛名の文字が宝島に載ってたナゴムの広告で見るケラさんの字でしたね。そういういい時代でした。

そのころの洋楽シーンでは、名盤が次々にリリースされていました

高校2年のときに友だちの本多くんからニルヴァーナとソニックユースのCDを借りたんです。それまで洋楽といえばボンジョビとビートルズしか聴いてなかったので、オルタナティブロックというのが僕にとってはかなり鮮烈で、そこから洋楽にハマりましたね。

当時、校内ではガンズアンドローゼズとかモトリー・クルーみたいなメタルが流行っていました。カート・コバーンがメインストリームのガンズを嫌うというような、オルタナ対メタルの図式があったんですよね。

今思うとそのころの洋楽シーンでは、名盤が次々にリリースされていました。1991年の2月にダイナソー Jr.の「グリーンマインド」、同年の9月にニルヴァーナの「NEVER MIND」とレッチリの「Blood Sugar Sex Magik」、1992年の7月にソニックユースの「Dirty」と短期間のうちに後々まで語り継がれるようなCDが出たんですよね。

僕もロッキンオンを隅から隅まで読んだりして、洋楽にのめり込んでいきました。時代的な特権に恵まれていたんだと思います。

同時に日本のパンクシーンも、自分のなかでブームになっていました。最初は宝島によく載ってたLAUGHIN’NOSEやCOBRAなどの、比較的メジャーなパンクバンドしか知らなかったんです。

でも高校2年生のころにTHE MAD CAPSULE MARKETSの1stをジャケ買いして、自分の頭の中で鳴っていたパンクの音に出会えたって感じました。それからさかのぼって、あぶらだこやザ・スターリン、INUなどのアングラなパンクバンドを聴き始めましたね。最初にライブを観に行ったのはかまいたちですけど。

あるとき名古屋の同じライブハウスで土曜日にTHE MAD CAPSULE MARKETS、日曜日にアイドルの水野あおいという、スケジュールが組まれてて両日参加したんです。

もちろん客層は全然違うんですよ。それを眺めながら「ジャンルは違うけど本質は同じだな」って。そして「それを分かっているのは自分だけだ」なんて勝手なことを考えながら見ていたのを覚えてます。今思うと、とんだ思い上がりですね。あと、ネルシャツを着ていました。アイドルオタクとパンクをつなぐ重要アイテムですね。

人生で最も影響を受けたのは電気グルーヴのオールナイトかもしれません

1991年の6月に「電気グルーヴのオールナイトニッポン」が始まって、この放送がのちの人生観を大きく変える出来事になりました。なんにでも影響を受けやすいタイプなんですけど、人生で最も影響を受けたのは電気グルーヴのオールナイトかもしれません。

価値観が揺さぶられた、というより、物心も付いてないころでしたからね。価値観なんてまだなんにもない、空っぽの天プラだったので、この価値観に決まってしまいましたね。今でも、かっこつけたもの、スカしたものに対してのシニカルなものの見方など、電気のオールナイトのメンタリティで生きています。

電気の周りにいる人ってみんなおもしろかったんですよね。漫画家の天久聖一さんとか、電気がやってた「スーパー写真塾」の連載でボアダムズを知ったりだとか、芋づる式に新しいものや人に出会いました。

このころは、バブルが崩壊して政治や経済の流れと一緒にいろんなカルチャーが変化した時期でしたね。カート・コバーンが自殺したり、地下鉄サリン事件が起きたりと世の中も激動で、一緒に自分の視点とか価値観もめちゃめちゃ変化しました。

自分が考えたというより、都市やカルチャーが自分の代わりに色んなことを考えてくれていたような気がします。

30にして初めてバンドをすることになったんです

大学に合格して名古屋から上京してからも音楽は好きで、いろんなバンドのライブに遊びにいっていました。

そのころは、いちごちゃんねるっていう2ちゃんねるの二番煎じみたいな掲示板があって、そこに自分が好きだったスワンキーズっていう伝説のパンクバンドのスレッドを立てたら、なぜかそのスレにメンバーが降臨して再結成!みたいな事件が起きて、東京から九州までライブを観にいったりしてました。

スワンキーズ再結成のことは、自分はスレを立てたのをすっかり忘れたころに、友達の山下君が慌てて教えてくれて。自分が立てたスレとはいえ、自分の意志とかキャパシティをはるかに凌駕する出来事だったから、本当に驚きましたね。

30歳のときに大好きだったバンドが解散することが決まったんですよね。そのラストライブの打ち上げでメンバーの1人に「解散しないでくださいよ」ってお願いしたら「じゃあ俺がベース弾くからお前ドラムやれよ」って誘ってもらいました。

で、その場でバンドメンバーを決められて、30にして初めてバンドをすることになったんです。音源作ったりツアーに行ったりと、右も左も分からないまま精力的に活動していましたね。

気が付くといつもこうなんです。自分は何もしてないのに、運と縁とタイミングだけで物事が勝手に進行していて、自分でも予測だにしなかった場所に立ってる。

その後もいくつかバンドをやったりしたんですけど、お店を始めてからは当時ほどは動けていません。今でも時々スタジオに入ったりはしています。ドラムは全然上手くなりませんね。10年以上やっててダブルストロークどころかロールすらできないですから。

でも、もしドラムがめちゃくちゃ上達していたら、お店をやっている自分は今ここにはいないかもしれません。ドラムが下手でよかったです。

イトウ氏が語るサブカル四十年史 〜アイドル体験〜

「アイドルって本当にいるんだ、しかも隣の中学に」って

もともと親戚の影響で歌謡曲が好きだったので、アイドルを受け入れる準備は知らず知らずのうちにかなり整っていたと思います。最初に好きになったアイドルは斉藤由貴でしたね。初めて買ったアルバムはC-C-Bの「冒険のススメ」だったかな。

小5のときに「夕やけニャンニャン」が始まって「おニャン子クラブ」に激ハマりしました。ゆうゆと渡辺美奈代さんが好きでしたね。ビデオに録画して何度も繰り返し観てました。

多感な思春期に「夕やけニャンニャン」をリアルタイムで見てしまうというのは本当に危ないことだったかも知れませんね。

中1の夏休みの最後の日におニャン子が解散するんですよ。いまでも、夏の終わりはおニャン子の解散のことを思い出しますね。おニャン子クラブの解散は僕にとってとても大きな喪失体験でしたから。

でも、解散後もメンバーのその後の活動を追いかけていたから、喪失から立ち直るのも早かったですね。この切り替えの早さのおかげで、アイドルファンを30年以上やれているのかもしれません。

渡辺美奈代さんはデビューしていたし、ゆうゆも「うしろゆびさされ組」からソロになったし、生稲晃子さんが好きだったので「うしろ髪ひかれ隊」の活動もチェックしていました。

「おニャン子のアブない夜だよ」がワンコーナーとして放送されていた「小堀勝啓のわ!Wide」が好きで、月曜から木曜までは毎晩0時40分まで聴いていました。そのあとのオールナイトニッポンも聴いていたから、授業中は居眠りばかりで成績は悪かったですね。300人中270位くらいでした。

そのころカンペンケースに「渡辺美奈代」って油性マジックで書いてて。自分なりの歌舞伎フォントで。それを見た担任の上田直子先生に呼び出しをくらったんですよ。「渡辺美奈代」って歌舞伎フォントで書いてても怒られる理由なんてないのに、「怒られるのかな、カンペン没収かな」とか思ってビビって相談室に行ったら、その先生が「イトウくん、渡辺美奈代が好きなの? 私、じつは前の中学校で渡辺美奈代を教えてたよ」って。

衝撃でした。「アイドルって本当にいるんだ、しかも隣の中学に」って。

その日、帰宅して「HOPPING(渡辺美奈代の2ndアルバム)」を聴いたら、まったく違って聴こえましたね。生々しさが増したというか、当たり前だけど実在する人間が歌っているということにびっくりしました。

「スター」っていう感覚がない今の人には伝わりにくいかもしれないけれど、もう、見方が決定的に違ってしまった。

これは、もちろん今思うとですが、“アイドル現場派”としての自分の考え方に繋がっている原体験じゃないかな、と。

アイドルをどう観るか、というような視点も、たまたま担任が渡辺美奈代を教えていたという事実があって、そこから考え始めて少しずつ作り上げていったようなもので、結局、これも自分だけの力ではないわけです。不思議な引き寄せというか、運気が働きかけている。

Qlairは初めて見た瞬間にちょっと無視できない何かを感じて

今と違ってネットがないし雑誌も少なかったので、アイドルの情報を探す方法は限られていました。専門雑誌でいうと「Dunk」と「BOMB!」の2種類だけでした。両方買いたかったんですけど中学生だし、お小遣いも少ないので、おニャン子のメンバーが比較的たくさん載っている「Dunk」を毎月買ってましたね。

そうしたら中3のころに「CoCo」っていうアイドルグループがいきなり「Dunk」の新年号の表紙になったんですよ。CoCoはフジテレビの「パラダイスGoGo!!」っていう番組から生まれた「乙女塾」のユニットなんです。

でも番組自体が中部地方では放送していなかったんですよね。そこから「Dunk」は乙女塾にどんどん侵食されていって、放送を観れない僕は“蚊帳の外感”を覚えて……。「イカ天」とかバンドブームが始まったこともあって、アイドル熱はそこで一旦冷めてしまいました。

好きで買っていた雑誌のせいでアイドルから遠ざかる。これも、なんとも奇妙なめぐりあわせです。

でも「乙女塾」でアイドルから一度はなれた僕を、アイドルに引き戻してくれたのも「乙女塾」だったんです。

アイドル熱が蘇ったのは1991年、高2のころです。「乙女塾」から生まれた「Qlair」というユニットにハマりました。CoCoとかribbonもなんとなく横目では見ていたんですけど、Qlairは初めて見た瞬間にちょっと無視できない何かを感じて「これは真剣に向き合わねば」と思ったんですよ。

それで当時、Qlairが出演していた「聖PCハイスクール」という番組を欠かさず観るようになって。そこに好きだった宍戸留美さんとかフェアリー・テールの菊池と浅山が出ていて、またアイドルにハマっていったんです。

もちろん当時「最後のアイドル」といわれていた高橋由美子さんも好きでした。後年、上京してアイドル好きの友だちの家を訪ねたら全員の家に高橋由美子の「Sweet Dressing」と「Promotion」のビデオが並んで置いてありましたからね。すごい人気でした。

アイドルのライブを観るために夜行バスで初めて東京に

高校3年生のころに「東京パフォーマンスドール」というアイドルのライブを観るために夜行バスで初めて東京に行きました。

神田の書泉ブックマートで、アイドルのミニコミをリュックがパンパンになるくらい買ったのを覚えています。当時はアイドルの市場が賑わっていなかったので、アイドルのメディア自体が少なかったんです。

専門誌は少なかったし、青年誌にちょっとだけ掲載されているくらいだった。大学生が取材して自主的に出版するミニコミがイチバン機能していて、商業誌より面白かったんですよ。

そのころはかなり楽しかったですね。アイドルの数は少なかったんですけどみんな魅力的で、いまと違って一応「ぜんぶ」観ることができた。で、結果的にはどんどんオタク化していきました。DDどころか、アイドルであればなんでも好きでしたね。

アイドルは完全に”被差別娯楽”でした

高校ではバスケ部だったので朝から晩まで練習していたんですけど「バスケ部のイトウくん」ではなく「アイドルオタクのイトウくん」と言われてて、悪い意味で有名でしたね。

当時は世間が今ほどアイドル文化に寛容じゃなかったんですよ。1990年くらいからおニャン子の残り火も消えかかっていて、アングラ文化になっていました。アイドルは完全に”被差別娯楽”でしたよ。

校内でアイドル好きは僕以外にいなかったんです。「アイドルオタク」ってだけで部活の後輩からタメ口使われてたし、差別も受けましたね。

でもやめられなかった。バカにされても自分はアイドルオタクとしての矜持を持つべきだ、という妙な使命感に駆られて、通学カバンにはアイドルの缶バッチを付け続けていましたし、部室のロッカーにはアイドルのポスターを貼り続けていました。めちゃめちゃ落書きされたり、破かれたりしてましたけど。

当時の音楽シーンは「ビーイング系」や「シンガーソングライター」が流行ってたんです。

自分で曲や詞を作る「アーティスト志向」に価値が置かれていました。アイドルは「ガールポップ」と呼ばれて、無理矢理、歌詞だけ書いたりしてアーティストに区分されていた。

サザンオールスターズファンの弟が、当時、僕の部屋にいきなり飛び込んできて『「東京パフォーマンスドール」の「ドール」の意味知ってる? 「人形」だよ? そんな”作られた音楽”を聴いて何が楽しいの? 恥ずかしい』っていきなり批判してきたんです。

それほどまでにアイドルは蔑まれていた。身内相手でも容赦なかったですね。まぁそんな弟も、20年後に「モノノフ」になるんですけど。

だから当時の僕らは世間と交わるために「アイドルファンであることのロジック」を作らねばいけなかったんですよ。アイドルを愛している理由を論理的に組み立てないと叩かれるんですよね。

冬を生きのびるために言葉で武装しなければならなかった。「テクニックとかスキルとかを求めているんじゃない、アイドルこそが存在を最もズルムケにできる表現方法だ」みたいな感じで理論武装みたいなことをしていました。「楽曲派に逃げる奴は裏切り者だ」とか。

今は全然そんなことないですけどね。いわゆる純粋な楽曲派ですね。アイドルポップスをただただ呑気に聴いていられる実にいい時代になりました。

「アイドル冬の時代」を終わらせたのが、1998年にデビューした「モーニング娘。」

1995年、20歳で名古屋から東京に出てきました。制服向上委員会というグループが好きで、彼女たちが毎週、東京でライブをしていたんですよ。そのライブに参加するために上京しました。

24時間、アイドル漬けでしたね。

制服向上委員会のライブだけではなく、可能な限りイベントに参加していました。すると、どのライブに行っても同じ人と顔を合わせるわけです。それくらい狭いコミュニティだったんですよ。

当時のアイドルシーンは制服向上委員会とアルテミスが二大巨塔で、今みたいに自由自在に趣味にあわせてグループや現場を選べる時代ではなかった。

古典的なアイドルが好きな人はアルテミス、ちょっと変わったアイドルが好きな人は制服向上委員会のファンだったんですね。そこでアイドルのミニコミを作っている友人と仲良くなって、自分でもミニコミを作りながらファン活動をしていました。

「アイドル冬の時代」を終わらせたのが、1998年にデビューした「モーニング娘。」でした。「ASAYAN」でメンバーがオーディションを受けているときから夢中で。友達と当時住んでいた東府中の六畳一間のアパートに集まってみんなで手に汗を握りながら「シャ乱Qロックボーカルオーディション」を見てました。

アイドル好きの仲間内でも「潮目が変わってきたな」って。

アイドルに興味がなかった人も「モー娘。で誰が好きか」みたいな話をはじめて、アイドルシーンがまた盛り上がるんじゃないかなっていう空気だったんです。それで満を持して渋谷公会堂にファーストライブを観にいきました。

でも「なんか違うな」って、思っちゃったんですよ。すごく良いパフォーマンスで、お客さんも盛り上がっていたんです。でもなんとなくピンとこなかったんですよね。

もしかしたらアイドルが世間的に認められることが嫌だったのかも。幼少期から染みついた「売れると離れる嫌な性格」が出ちゃったのかもしれません。仲間たちの半分も同意見で「僕らは所詮、冬にしか生きられない生き物なのかもね」って寂しく語り合ったのを覚えています。

そこで自分のなかでのアイドルブームが一旦終わっちゃうんですよ。小学生のころから波や浮き沈みはあってもずっと続いていたのに、あっさり終息したんです。

そこから4年はアイドルのライブに行くこともなかった。YURIMARIだけ行ってましたけど、それもすぐ終わりましたね。

「つんく、すごいな」って。そこからあらためてモーニング娘。を聴き始めた

オタ卒してしばらくたって30代に入ったくらいのときに、お仕事で香港に行ったんですよね。

その香港の夜市でたまたま見かけたモー娘の4thアルバムのカセットを買って、「アイドルなつかしいなー、これが辻加護か」と軽い気持ちでホテルで再生してたまげました。

「Mr.Moonlight ~愛のビッグバンド~」の「恋は時に急発進で、恋は時に急ブレーキ」っていう歌詞を聴いて、頭がパーン!って破裂するような衝撃を受けたんです。「つんく、すごいな」って。そこからあらためてモーニング娘。を聴き始めたんですよ。

“劣等生”の紺野あさ美さんが好きでしたね。モー娘で終わったアイドルブームがモー娘で復活した。なんだか乙女塾のときの繰り返しみたいですけど、完全なオタ卒からの復活だから、相当の衝撃だったんだと思います。

そのままアイドル熱がどんどん高まっていくなかで娘。の後輩の「Berryz工房」が登場して、完全にヤラれて、アイドル熱はもうちょっとやそっとのことでは消せないくらいに燃え上がってしまいました。

触発されて「よし、三重県の友だちに自転車で会いに行く旅に出よう!」って

Berryz工房はデビュー直後からずっと好きだったんですけど、5th、6thシングルくらいから「曲が好きじゃないな」って。「もしかしたら曲じゃなくてユニット自体が好きじゃなくなってるのかも」って思い始めたんです。

アイドルって奇跡のバランスでできてるものだから、些細なことで冷めやすいんですよね。でも、またBerryzに力を入れ始めるきっかけになった“事件”があって。

そのとき新橋の中古のアダルトビデオ店でバイトをしていたんですけど、採用されてから一度も出社時間に間に合わず、とうとうクビを告げられて……。でも、AVは見放題だったので、最後に店内で平野勝之監督の「わくわく不倫旅行」っていうビデオを観ていたんです。

そのビデオが監督の平野さんが女優さんと自転車で東京から北海道まで旅をするっていう内容で、「最後のバイトだ」という感傷も加わったのか、心の底から感動してしまったんです。それで触発されて「よし、三重県の友だちに自転車で会いに行く旅に出よう!」って。

もう即座に出発ですよ、ろくに準備もしないままに。だから、トラブルだらけの旅でした。豪雨のなかで箱根の山道を越えて、下り坂なんて自転車のスピードメーター見たら時速65キロも出ていて、本当に死にそうな経験をしながらも必死に自転車を走らせていました。

当時、旅の記録をmixiの日記に投稿していたんですよ。アイドル仲間から見ず知らずの人までが見てくれて、コメントで励ましてくれました。

そのなかに友だちのスズキくんが「Berryz工房の新曲、イトウ君が好きそうな感じだったよ」って「ギャグ100回分愛してください」という曲の動画を貼ってくれて、それがすごく力になったんですよ。

そこから「Berryz工房」に対する愛情が復活して、その勢いで520キロの道のりをなんとか走破できました。ちょうど1週間かかりましたね。「ゴールしたらBerryz工房に会いに行こう、ここで死ぬわけにはいかない! 」って、それだけをモチベーションにしてひたすらペダルを漕ぎました。

ももクロにはかなりのめりこみましたし、そのとき自分にできることはなんでもやりました

2005年にAKB48がデビューしてから「アキバ文化」がにわかに盛り上がってて、つんくさんも「NICE GIRL プロジェクト」を始動して「キャナァーリ倶楽部」を発足させたり、秋葉原を軸にアイドル文化が高まっていくのを感じていました。

僕もキャナァーリ倶楽部が大好きでした。石丸電気もアイドル現場としてかなり元気な時期でしたし、そこからいわゆる地下アイドルにハマったんです。

コスメティックロボットやCHU!☆LIPS、Aira Mitsuki、hy4_4yh(ハイパーヨーヨ)なんかが好きになって、その流れでももいろクローバー(現・ももいろクローバーZ)を知りました。

当時は「中野ロープウェイ」を開業しようというボンヤリとしたビジョンがあったので「本格的にファン活動ができるアイドルは、ももクロが最後かもしれないなぁ」と考えていました。

「じゃあ、最後なら本気でやるか」と、ももクロにはかなりのめりこみましたし、そのとき自分にできることはなんでもやりました。ももクロは、まだファンもそれほど多くはなくて、ヤマダ電機のPHSコーナーの棚どかしたり、駐車場の植え込みの横とかでパフォーマンスしてた時期です。Chu!☆LIPSや制服向上委員会と対バンしたりもしてました。高城れにちゃんが大好きでしたね。

中野ロープウェイが「アイドルに愛される雑貨店」になるまで

「このキーホルダーを日本で売ったら流行るかも」って霊感のようなものが働いた

2009年、両親に誘われて3人でタイ旅行に行きました。そのころは仕事をしていなかったしほとんど連絡もとってなかったので、両親も不安だったんでしょう。そこで「これからどうするの」って聞かれて、僕はなにも答えられなかったんですよね。将来のプランなんて考えられなかった。

とりあえずホテルを抜けて散歩をしてたんです。橋の上を歩いていたら横になっているおじさんがいて、最初は物乞いの人かなって。でも近付いてみると、周りに可愛い犬のキーホルダーがたくさん転がっているんです。物売りだったんですよ。

なんとなくそれを買って。ホテルに帰ってテレビの上にそれを並べたら、なんだか奇妙な磁場が発生して「このキーホルダーを日本で売ったら流行るかも」って霊感のようなものが働いたんです。

それで犬のキーホルダー屋さんを開くことを決心しました。「そうと決まればもう少し買っておこう」と思って橋に戻ったんですけど、もう物売りのおじさんはいなくなっていて。「神様みたいな人だなぁ」と思いながらバンコクの市場をしばらくうろうろしていたら、問屋街にたどりつきました。

それで問屋の人に「この犬のキーホルダーありませんか」って見せたら「工場に山ほどある」って言われて、そのまま車に乗せられて市街地を抜けて山奥まで連れて行かれたんですよ。車のなかで、ヴィレヴァンの思い出とリンクする感覚になったのを覚えています。

そうしたら外壁が真っ黒なデカい工場があって「来い」って。これまた真っ黒なダンボールを渡されて、中身を見たらムカデとかゴキブリを模したゴム製のキーホルダーが山ほどあって「これだろ」って。「いや、こんな怖いのじゃなくてかわいい犬が欲しいんだよ」って言ったら「セイムセイム」って。走って逃げました。

犬のキーホルダーと少しのTシャツを並べたのが中野ロープウェイのスタート

結局犬のキーホルダーだけ持って、帰国して店を開くことを決めたんです。吉祥寺か高円寺で出店したいなぁって思ったけど、どこも家賃が高くて断念したんです。

「もうお店は無理かな」と諦めかけてたとき、偶然入った不動産屋さんで、中野ブロードウェイで月4万円というスペースを見つけてすぐに借りました。今は倉庫として使っているスペースで、人がすれ違えないくらい狭かったんですよ。そこに犬のキーホルダーと少しのTシャツを並べたのが中野ロープウェイのスタートですね。2010年、36歳の初夏でした。

「中野ロープウェイ」っていう店名は、もちろん中野ブロードウェイのもじりなんだけど、元ネタがあって。

むかし通ってた古本屋のチェーン店が、全部パロディ店名だったんですよね。「キノコノクニヤ書店」とか、東急百貨店の近くにあった「闘牛百科書店」とか。それを見て「お店の名前って自由につけていいんだ」という気付きを得たんです。

で、その手法を拝借して、いろいろ考えた末「ヴァレッジヴィンガード」か「中野ロープウェイ」にしようと思って。友だちにどっちがいいかなぁって聞いたら、10人中9人が「ヴァレッジヴィンガードの方がまだマシ」みたいな感じだったんですよ。

でもなんとなく直感で、中野ロープウェイにしました。芸術家のひさつねあゆみさんが唯一「中野ロープウェイのほうがいいよ」と言ってくれたのを覚えています。

ダジャレだし、あるとき突然この店名が恥ずかしくなるかも、とか思って脅えることもあったけど、さすがに10年経ったら愛着湧いたというか、慣れましたね。

オープンした直後に、暗雲が漂う事件があった

オープンした直後に、暗雲が漂う事件があったんです。

中野ブロードウェイに住んでいる方が、個人で店舗のレビューをするブログをしていて、お店の告知用チラシを見て中野ロープウェイについて書いてくれたんですよ。『中野ロープウェイという雑貨店が「亡霊通り」で営業するらしい。ここ10年、あの通りで3年続いた店は中華料理屋の大門しかない』って。

亡霊通りって何だろうと思って「ジンクスに負けないようにがんばります」と返信したんです。すると『昔、ある占い師が地下の某店舗と揉めた末に亡くなり、その占い師が夜な夜な現れるので「亡霊通り」と呼ばれています』と返ってきたんですよ。

今でこそ若い人も多くなりましたけど、当時はそれくらい人通りが少なくて怖かったんですよね。中野ロープウェイは2019年で10年目なので、なんとかジンクスを打ち破れそうなんですけど。

スタートダッシュはまぁまぁ好調でした。理由の1つはオープンの1カ月後くらいに「モノ・マガジン」さんに取り上げてもらったことですね。中野ブロードウェイ特集の号で「知る人ぞ知る地下の変な雑貨店」みたいに好意的に取り上げてくれて。知る人どころか、まだ誰一人知らない店だったんですけど。

あとは、Twitterが流行するタイミングとほぼ同時期にオープンしたのもよかったのかもしれません。もしTwitterがなかったらどうやってお店の宣伝してたのかな? って考えるとゾッとしますけど。

「#おーぷんなう」ってツイートしているのは、もともとは遅刻したりサボったりしないように、今日もちゃんと開店したよって報告して、それで自分を戒めるために始めたんですけどね、毎日遅刻していますね。

でんぱ組.incの夢眠ねむさんが「中野ロープウェイ」を広めてくれたのはイチバン大きかった

元でんぱ組.incの夢眠ねむさんが「中野ロープウェイ」を広めてくれたのはイチバン大きかったと思います。

僕、30代前半くらいのときに、高円寺の友だちのお店の2階でネットラジオをしていたんですよ。ある日、そのお店の1階を通ったらひとりの女の子が、寿司ネタが載った厚い雑誌を切り抜いてノートに貼り付けてたので「何してるの?」って聞いたら「寿司スクラップ帳を作ってる」って。

2冊同じ雑誌があったから「1冊は切り抜かない保存用だね」って尋ねたら「いや、1つは奇数ページでもう1つは偶数ページ用」って。その答えがおもしろくて、すぐさまネットラジオにスカウトしました。

それがのちの夢眠ねむさんなんです。お店始めてからもたびたび遊びに来てくれて、ツイッターでも宣伝してくれて。本当にありがたかったですね。

それと元私立恵比寿中学の廣田あいかさんも、お店を宣伝してくれました。ももクロの前座でよくエビ中が出演していたのでよく見てたんですけど、彼女がニックネー ムを募集してたので「あいあい」って書いて出してみたら採用されたんです。それで名付け親になってしまいました。

そのころはちょうどお店を立ち上げるタイミングだったので、ぁぃぁぃのお母さんに「これからあんまりライブに参加できなくなるかもしれません」と伝えたら、後日親子でお店に遊びにきてくれました。ブログでも紹介してくれて、これもありかたかったです。

きゃりーぱみゅぱみゅさんが手がけた東京のガイド本に掲載していただけたことも、お店にとって大きな経験でしたね。

「なんでこんなにアイドルが来るのか」って聞かれることも多いんですけど、単純に僕がアイドルを好きなので、目ざとく気づくだけなんですよ。

まだそこまで有名ではないときにお店に来てくれてて、彼女たちががんばってくれたので、結果的に中野ロープウェイまで「アイドルが訪れるお店」として知名度が上がったりしている状況があるだけだと思います。

ホントにたまたまなんですよ。機縁が思わぬ繋がり方をして、自分が考えもしなかったような場所に着地する。僕は何もしていない。運だけです。

中野ロープウェイのカラーというのは、僕の好みがそのまま反映されています

基本的に人とコミュニケーションをとることが好きなので、お店に飽きるということはないですね。

定休日がないのもそれが理由で、休むのは1月1日、2日と、仕入れ日だけです。お正月は実家に帰って家族でご飯食べてから、結局1人で都内のブックオフの初売りをハシゴするのが恒例になってますからね。お店がない日は本当にやることがない。

販売している雑貨は、毎回、東南アジアで仕入れています。基本的に自分がおもしろいと思えるものだけを選んでいますね。

一度「もっと広い視点を持ちたい」と思って友人と一緒に仕入れに行って、その人の好きな雑貨や衣料を選んでもらったんですが、結局友人が選んだものを売るのは難しかったですね。

自分が良いと思ってないものは全然売れない。中野ロープウェイのカラーというのは、僕の好みがそのまま反映されています。

僕のスタンスは、どちらかというとずっとオタクですね

「人生に無駄なものなんて1つもない」とよくいわれるけど、今日いろいろ話してみて、本当に自分の人生は無駄なものばかりでできているなあと痛感します。

無駄なものを背負って、たまに使えそうなものがあれば使いながら、人生を歩いてきただけだし、これからもそうやっていければいいんじゃないかなと考えています。

お店も“生活「不」必需品”しか売ってないし、まったく機能的じゃない。そういう無駄をたくさん持てるのが豊かな人生なのかなって思いますね。

いま中野ロープウェイがサブカルだっていわれることも多いですけど、サブカルの定義もオタクの定義も、この20年で変わりに変わっていますからね。

今のサブカルの定義はよく分からないですし。僕の思ってるサブカルもオタクも、今の定義とは違うかもしれませんが、僕のスタンスは、どちらかというとずっとオタクですね。

根本敬がよく引用する勝新の言葉で「無駄の中に宝がある」というものがあって、僕はこの言葉が好きなんですが、それが知らないうちに中野ロープウェイの理念みたいなものになっているように感じます。

だから無駄を探しに来てください。宝があるかどうかはわかりませんが。

「アイドルの追っかけ」が、なぜアイドルに追われる存在になったのか

「アイドルが集う店」として中野ロープウェイは有名になった。「僕は何もしていない。ただ運が良かっただけ」と彼は謙遜する。この言葉にこそイトウ氏の魅力が詰まっている。イトウ氏には「私」が無い。これは仏教でいうところの「諸法無我」に相当する考えであり、芸術でいうところのシュルレアリスムに近い。

彼は常に自然体だ。一般的に常識の枠を超えたエピソードも淡々と話す。AVに感動して自転車で520キロを走破したことも、タイの物売りから買った30個のキーホルダーだけで開業したことも、彼にとっては至極当然のことであり、自ら成し遂げたなんて思ってもいない。すべては因果であり、運である。

「なんて優しい人なんだろう。そしてなんておもしろい人生なんだろう」

取材中に飛び出すエピソードを聞くうちに、私はもうすっかり彼の虜になってしまった。

そのおもしろさの源には「極める力」があるのだろう。イトウ氏は好きなものを見つけたら、とことん突き詰める。一見、何の変哲もない沼を一風変わったものの見方から深掘りしまくって、誰も知らない”宝”を探り当てる。「僕はサブカルではなくオタク」という彼の言葉には思わずうなずいてしまった。

サブカルチャーは何もアングラに限定したカルチャーではない。「売れない=サブカル」ではない。メジャーアーティストだって、モノの見方を変えれば立派なサブカルになりうる。もし「EXILEのメンバーの白髪の本数を更新し続けるブログ」なんてものがあったら、それは立派なサブカルチャーだ。

漫画、音楽、アイドル体験と、イトウ氏の人生とともに文化の変遷をお話していただくなかで感じたのは「彼は超一流のオタク」だということだ。そしてイトウ氏が掘り当ててきた宝に魅力を感じる人がお店に集うことを確信した。店内の商品ももちろんお宝ぞろいだが、イチバンの宝はイトウ氏本人であり、彼とのんびり話している時間なのだろう。だから中野ロープウェイには”珍客”ばかりがやってくる。

毎日のように顔を見せるアイドルたちはもちろんのこと、芸術家や文筆家、音楽家などカルチャーとの距離が近い職業の方もぶらりと中野ロープウェイでイトウ氏とお話をすることも多々ある。果たして彼らは商品を買いに来ているのだろうか。イトウ氏と会って話すことを真の目的にしているのではないか。

今では逆に来店したアイドルの女の子から「写真を撮ってください」とお願いされることもあるという。中野ロープウェイのTwitterは、さまざまなアイドルの笑顔で埋め尽くされている。追っかけから追われる側になったイトウ氏。それもすべて「たまたま」だという。しかしあえて書きたい。結果的には、きっとイトウ氏の魅力や行動が人を引き寄せているのだ。

イトウ氏はきっと今日も、丸イスにちょこんと腰掛けてニコニコしているだろう。飽きるまでお店を続けたら、将来はバンコクで暮らしたいそうだ。タイといえば微笑みの国である。いつも柔和な笑顔でお客を迎えるイトウ氏にぴったりだなと思いつつ、令和の今では珍しくなった「2万字インタビュー」を最後まで読んでくれたあなたの「オタク力」に賞賛と感謝を送りたい。

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中野ロープウェイ 公式サイト

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