ミュージカルや映像など様々な舞台で活動を続けている俳優の谷口浩久氏。
近年では舞台製作や演劇ユニットとしてもその活躍の幅を広げている。
その強い目力、言葉のひとつひとつの説得力、そしてちょっとお茶目な人柄。彼はこれでもかというくらい強烈に『役者』を感じさせる人物だった。
今回はそんな谷口氏の過去から未来まで大いに語っていただいた。
目立ちたかった子供時代
一番古い記憶がスターウォーズ
物心ついたときから俳優をやりたくて。
小学生のときの学芸会はもう主役に手上げたりとかしてやってたんですよ。
ただそれが俳優っていう仕事があってとかどういうルートでそこに進んでったらいいのかっていうようなことを知ったのは、もっと後になってからですけど。
元々はたぶん父親からずっと映画を見させられてて、もう小さい記憶のない頃から映画に連れてかれてたんですよね。
スターウォーズでした。一番古い記憶がスターウォーズ。それが一番のルーツだと思います。
スターウォーズって色んな夢を見れるじゃないですか。僕はたまたまそこに出てる人になりたいと思って。
スターウォーズ見たとき、「パイロットとかをやりたい」とは言ってたんですよね。
なんで製作側に行かなかったかはちょっと自分でも正直言うとよく分からないんですけど、もしかすると出てる人間がフォーカスされるっていう。
目立ちたかったのかもしれないですね、元々は。
父親の影響をずっと受け続けて
最初はSFとアクション映画みたいなとこから始まって、そのうち高校くらいになったらゴッドファーザーとか。ドラマ系に走ってました。
父親の影響は大きいですね。ずっと影響受け続けてました。
芸術系の父親だったんですけど、あんまり体が良くなくて、ヘルニアで腰が曲がってる人間なんです。だから運動ができなくて。
小さいときに例えばお父さんとキャッチボールをしたとかって記憶がないんですよね。
僕はその影響なのか運動神経が非常に悪くて、運動できないんですよ。ちょっと体も弱かったし。
運動会とかで運動神経のいい男子たちが目立っていくじゃないですか。僕は運動神経が悪かったから、そのコンプレックスはあったと思うんですよね。
所謂運動のできないおとなしい子ではなく、元気で先生からはしょっちゅう怒られてた暴れん坊だったんで、演劇とかで表に立って目立ちたいっていうのは当然あったと思います。
人事の人に「すみません、落としてください」
高校在学中、高3だったと思うんですけど、某劇団に入ったんです。
プロダクションの機能が一応くっついてるみたいな感じの劇団に入って、その頃から一応テレビの現場は行ったりとかしてたんですよね。
劇団の中の舞台だったりとかあとは映像のお仕事もらいながら、大学で演劇サークルに入ったんです。
それがすごく楽しくて。
要するに自分達で自由に作ってくってことがすごく楽しくて。
それまでは映画に出たいとしか考えてなかったんですけど、そこからみんなで舞台を作るっていう発想に変わってきましたね。
「大学時代に売れてやるぜ」みたいな想いがあったんですけどなかなか難しくて。
大学3年4年になってもう就職活動の時期になっちゃったので、一旦僕の中で諦めたんですよそこで。就職しようと思って。
結構ちゃんと就活したんですけど、一番入りたかった出版社に一番最後の役員面接で落とされちゃったんです。
その後に受けた、信号機とかを作ってる会社だったんですけど、会社が駅からちょっと遠かったんですね。帰りに人事の人が車で駅まで送ってくれたんです。
その時僕人事の人に「僕はやっぱりほんとはやりたいことがあって、すみません落としてください」って言ったんですよ。
就職が決まらなかったことで、うちの母なんかもかなり残念って言ってたんですけど、心の中では良かったと思って。ちょっとほっとしたっていうか。
芝居~ダンスを経てミュージカルの道へ
ダンスチームを追い出されて一人ぼっちに
その後芝居はかなり熱を入れていたのでちょっと燃え尽きちゃって。
就職をしないでしばらくやり残したことを数年やろうって思って入ったのがダンスの世界だったんです。
クラブで踊ってるヒップホップとかそっちの世界だったんですけど、始めてみたらだんだんそっちがおもしろくなってきちゃって、一回本格的にお芝居を離れました。
ヒップホップのダンスチームを作って、僕がリーダーをやってたんです。
ある日他のメンバーが、「ちょっとリーダー話がある」と。
「今回のショー抜けてほしい」って言ったんですよ。
リーダー抜けて俺たちだけでやりたいってことを言われて。
なんで?って言ったら、リーダーはダンスが下手だと。
俺たちとリーダーがやりたい事は違う。リーダーはすぐこのダンスを芸能界のほうに持っていこうとする様なことを言うけど、俺たちはクラブで踊りたいんだみたいな事を言われて。
その当時って今のEXILEの方たちがまだクラブで踊ってた頃で、まだクラブからメインストリームを辿った人がいなかったんですね。
実は僕が夢見てたのは、あのルートを辿ってまた芸能界に戻りたかったんです。そしたらみんながそれを嗅ぎ付けて。
ダンスの世界ってちょっと斜に構えてるから、あんまりそういうことを言うと嫌がられちゃう。
僕もはっきり言わなかったんですけど、まあ嗅ぎ付けて俺たちはちょっとやり方が違うんだってことを言われて。
それでダンスチームを追い出されまして。
一人ぼっちになったときにちょっと話聞いてもらおうと思って、大学の演劇サークル時代の後輩に連絡をしたんです。
そしたらその後輩たちが小劇場の劇団を立ち上げるタイミングだったようで。
「じゃあ谷口さん久しぶりに演劇やりませんか」と。「夏に公演があるから出てくださいよ」って言われたんです。
僕もなんとなく行く場所無くなっちゃったんで、分かった出るよって言って、彼らの旗揚げ公演に出たんですよね。
その後の僕の道を決めた
ダンスを辞めてから僕のダンスの師匠の忘年会があって、2次会でカラオケ行ったんです。
僕カラオケがそこそこ得意だったんで、歌歌ったら先生が「これだけ歌えるんだったら、俺が持ってるオーディションあるから受けてみないか」って言われたんです。
新宿コマ劇場制作の『サタデーナイトフィーバー』のミュージカルだったんですけど、パパイヤ鈴木さんがプロデュースだったので、ダンス繋がりで先生にオーディションの話が来たみたいで。
僕はその当時、最後のオーディションにしようくらいのつもりで受けたんですよね。
当時のミュージカルってストリートダンスとか使わないんですよ。ミュージカルの人たちって基本ジャズダンスなので、そこに集まったミュージカル界から来たメンバーがダンス審査で一斉に落ちたんです。
それで僕は受かって。
次に歌審査があったときに、今度は残ったストリート系の人たちが歌と芝居の審査でぼろぼろだったんですよ。
その審査で「一人いいやつがいた」って言われていたのが僕で。
結局オーディションに残ったんですけど、てっきりいっぱい出てくるダンサーの一人かなと思ってたんです。
オーディションの後アルバイトやってたら、いきなり新宿コマから連絡が来て。
「大澄研也さんとインタビュー受けてもらいたい」「ポスターの表紙の撮影をしたい」と。一体何の話ですかという感じだったんですけど、実はメインの大きい役につけてもらってたんです。
その後に黒木瞳さんの舞台のオーディションに出たんですけど、たまたま黒木さんがオーディションにいらしてて、これもたまたまなんですけど、振付担当がサタデーナイトフィーバーの時の先生だったんです。
そこで先生が今回振りはつけませんと、みんなのフリーダンス見せてくださいと言われたんです。
僕はそこでロボットダンスを延々に踊ったら、黒木さんが指名してくださったらしいんですよ。彼おもしろいからっていうので。
たぶんその2本の舞台が、僕のその後の道を決めたんですね。
舞台制作は発見だらけ
気が付いたら僕がリーダーシップ取ってやっていた
舞台制作は2012年から具体的にやるようになりました。
たまたま先輩が「一緒に舞台やりませんか」って誘ってくれたのがきっかけでした。
ただ結果的にその先輩企画段階で抜けちゃって、気がついたら僕がリーダーシップ取ってやっていたんですね。偶発的なものだったんです。
いざやってみたらアイデアや欲求が次々と生まれてきたりして、思考がどんどんに前に進んでいきましたね。
発見だらけでした。
僕は基本的に自分で制作しても自分で出演する機会をなるべく作ってやってたんですけど、まあもう制作側のメンタルがわかると現場行ってもやっぱりスタッフさんの見え方も違ってくるんです。
例えば僕はよく海外戯曲を自分で選んでやるんですけど、海外戯曲の面白さを知ると、じゃあそこから海外戯曲の歴史を調べてみようとか。
自分で選んで学んでいくことの面白さに、めちゃめちゃ気付いたんですね。
その面白さを理解した上で、どうやってそれをお客さんにアピールしていこうかっていう、その先のマーケティングの話だったりとか。
そういうことって普段役者だけやってるとなかなか考えなかったりするんですけど、制作をやって世界は圧倒的に広がりましたね。
自分が思っているビジョンをいかに人に伝えるか
苦労だらけと言えば苦労だらけなんですけど、何なら体調崩すくらいに。
その苦労をざっくり総括して言っちゃうと、自分の思ってるビジョンというものを、いかに人に伝えるっていうことが大変かっていうことですね。
共同作業なんで、まずお客さんの前に共演者の俳優がいたりスタッフがいる。
特に共演者の俳優たちに自分の思いを伝えていくってことが、こんなに難しいことなんだって。
そこでもう誤解が生じてしまうと、稽古中にお互いがこんなはずじゃなかったって思ってしまったりとか。
終わったときに「こいつとやらなきゃよかった」とかっていう感情が出てきちゃうのって、元を辿ると結局僕がちゃんと彼らに伝えてあげられてなかったっていうことなんだなっていうのが全部。
そこをどういう風に折り合いをつけてくかってことに、もっともっと自分はフォーカスしていかないとと思ってます。
それは悪い意味の妥協ではなく。
どう折り合いつけてくかってことに真剣に向き合っていかないと、自分の幸せな人生って手に入らないんじゃないかって。
そこに思いっきり気付いたんですよね。
独自の演劇論を育てていく
技法的なものと精神論はつながっている
最近スピリチュアルだとか、潜在意識がどうの自己啓発っぽいことを発信してるんです。
別に僕自身が別にスピリチュアルに精通している人間だとかっていうことではないんですけど、役者だったり音楽だったりをやるとみんな技術的なことに囚われがちで、それだと一向に次に進まないぞっていうのをなんとか発信したくて。
するとそこに端的にたどり着いてるのが、実はスピリチュアルだったりとかするんですよね。
今世界中で行われてるお芝居って、約100年前にロシアで生まれた方法が元になってるんです。
例えば僕が教えているクラスでそのロシアのメソッドを話せば話すほど、スピリチュアルの話と全く一緒になっちゃうんです。
スピリチュアルなんかでよく言うのは未来に縛られず過去に縛られず今を生きなさいとかっていうのがあるんですけど、ロシアのメソッドで話していくと、「今その瞬間の相手にフォーカスして」とか全く同じ事を言うんですよ。
100%被ってると言っても過言じゃないくらい。
俳優のシンポジウムを作ってみたい
舞台やミュージカルの、所謂商業演劇の活動っていうのは続けていこうかなと思ってます。
今現在この世の中で何が行われているかっていうことを、僕自身も知り続けていかないと、次の世界の話ってできないと思うので。
しんどい世界なんですけど、やっぱりそれはちゃんと肌で感じながら新しいことと照らし合わせていこうと思うので、続けていこうと思って。
ただそれと同時にまずは発信をしていく作業をしようと思っています。
所謂座談会みたいなのをして、YouTubeやツイキャスみたいなことで全国の人がそこに参加できるようにしてくとか。更にそこからスカイプとか使って、シンポジウムみたいな情報交換を全国的にやってみたいなと。
最終的にはシンポジウムに留まらず、もっといい面白いかたちの演劇というものを具体的に立ち上げられるといいなと思うし、そのときは僕も製作者や俳優として出て行けたら、すごくいい経験できるんじゃないかと思って。
火を点ける一端を担いたい
クリエイターって創造をしてく人ですけど、こういう世界こそ過去の慣習っていうのがものすごく強くて。
その中にいると自然と自分もそこに染まっていってしまって、気がつくと自分がすごくわくわくしてた夢っていうのが、叶わない痛みになり、やがてその痛みを感じなくなっちゃうんですよね。
もうこれが当たり前になっちゃうから。
夢は実現するっていうことを語らなきゃいけない側の人間が、僕の肌感覚でいうと意外と隣にいる多くの俳優たちがそれを失ってるんですよね。
アーティストやクリエイターって人類を牽引できるような人達だと思うんですよね。
だから僕らが目を覚ましていかないと、世の中の人達は絶対変わらない。
まず古い慣習を捨てていくっていうっていうこと、新しいことに敏感になっていくっていうのが僕はすごく必要だなっていうのを、かなり強く感じるようになって。
この火をまず点ける。
僕はその一端を担いたいなと。
シュッていう。
あと火がついたらみんなで燃やしてくれっていうことです。
ジャンルを超える
話を聞けば聞くほど、彼はエンターテイメントの中にいるのではなく、エンターテイメントを創りだす人なのだなと感じた。
ハリウッド映画に憧れた少年時代から、ずっとその先を見つめている。
日本の演劇界にとどまらず、色々なものを巻き込んで、ジャンルを超えた新しい世界を先導していく。
そんな未来を託された存在なのではないだろうか。
谷口氏の今後の活躍に注目していきたい。
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