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苦悩や不安を抱えながらも自分の選んだ道を歩み続ける。PA佐々木優

MUSIC

2019.5.17

PAとは、Public Address(パブリック・アドレス)と呼ばれる電気的な音響拡声装置を用いて、同じ空間にいるすべての人へ音を届ける仕事である。

あまり一般的に知られていないそんなPAの世界へいきなり飛び込んだのが、この佐々木氏だ。

今じゃ考えられないほど厳しい経験を経て念願のPAになり、第一線を歩み続ける彼に過去と今、そして未来の話をしてもらった。

知識0からPAの世界へ

プレイヤーからPAへ

PAになりたいと思ったのは割と不純な動機。(笑)
好きなアーティストのツアーDVD見てる時、ああいうのってだいたい最後にアーティストとスタッフが仲良くしてる映像が入ってるんだけど、それ見て「仕事しながら演者と仲良くなれるなんてめちゃくちゃいいじゃん」って思って。

そんな安易な気持ちで音楽の世界に踏み込んでみたらとんでもないことになっちゃいました。(笑)

16歳の頃に流行もあってバンド組んで、高校時代に渋谷の小さいライブハウスにちょこちょこ出させて貰ったりしてて。

その頃に全国ツアーを回っているバンドさんが確かアルバムツアーをやってて、ゴリ押ししてカセットテープを渡して、O.A(オープニングアクト)でいいんでってお願いしたら運良く出させてもらえることになって。2.3分くらいお邪魔できることになったりとかあって。

その頃出ていたライブハウスで、他のバンドのメンバーが「すいませんギターの音あげて下さい。」っていうのをみんなやってて、自分もやってみようと。
全く分からないけどとりあえずやろう。

「もうちょっと歌上げてください。」「もうちょっと迫力ある感じで。」って分からないながらに言ってみて。

で、冷静になって考えた時思った。え?あれじゃん。結果音ってあそこ次第なんでしょ?じゃああれやろうって。至極簡単な。

バンドも好きで、みんな真面目にやってたから続けたいとは思ってたと思うんだけど、社会人になるタイミングで辞めちゃう子もいたりして。

そういうこともあって、ちゃんと仕事には就かないといけないって思ってたからちょうどいいかもと思って。

それが大学2年の頃。

4回の突撃訪問

いざやってみようと思っても何の知識もないしそういう専門に通っているわけでもない。でも気持ちが先に動いて、その頃唯一持ってたVHSのエンドロールに載ってる会社に突撃訪問したの。

当然門前払い。

だから2か月後また行った。(笑)
そしたら「あぁ、君か。」みたいになって、何かやったことあるの?って。素直に「何もないです。」って答えたら当然帰されて。

3回目に行った時は、いきなりその会社の社長さんに乾電池を見せられて、「これ何ボルトかわかる?」って聞かれたけど当然わからなくて答えられずにいたら「電気の勉強くらいしろ。舞台なんて電気だらけなんだから電気の事もわからないようじゃ話にならない。」ってはっきり言われて。

4回目で「お前本当にしつこいな。」って言われて。(笑)
雪が降る頃から桜が咲く頃までずっと行ってて、それがちょうど大学3年に上がるタイミングだった。

まあもう4回目にもなるとカマかけられたりして「じゃあ明日から来いよ。」って。在学中なこと知ってるのに。

でも行けないって言いたくなくて、その場で「わかりました。」って了承して帰って速攻親に泣きついて、大学辞めますって。

そして、その次の日から働き始めた。

まるでいじめのような仕事内容(笑)

普通専門学校卒業してから入った子たちは1.2か月経ったらもう現場行って4.5.6番手くらいのポジションでやらせてもらえるんだけど、僕は3か月間事務所の倉庫から出たことがないというほぼいじめみたいな待遇を受けて。(笑)

いかんせん何もわからないから先輩にアレ持ってきてこれやっといてとか言われてもスムーズに作業できなくて。だから自分にとってはこの環境は当たり前というか、仕方ないと思ってた。

でもその3か月のおかげでケーブルの巻き方だったりスピーカーの仕組みだったりいろんなことを学べたから自分にとっては必要な期間だったと思う。

先輩方はこんだけいじめとけば1週間で辞めるだろう、1か月で辞めるだろうって感じだったみたいだけどね。でも一向に辞める気配がない。(笑)
現場もろくに行かず何が楽しいんだ、ほんとしつこいなこいつって。(笑)

だけど何も知らないんだもん。比べるものがなかったから全然平気だった。できる人が外に行くのは当たり前。僕はできないから仕方ない。それだけのことだった。

PAとしての初めての仕事

それからちょくちょく会社の仕事もやらせてもらったりして、半年後くらい転機があって。自分の好きなアーティストが多く出ている現場に初めて行かせてもらえて。その時すごく嬉しかった。

会社の現場に徐々に行かせて貰える様になった頃、初めてフリーランスのPAの方々と全国ツアーを回らせて貰えるチャンスが有った。

その方々と仕事をやらせてもらう機会が増える中、僕の知ってるバンドがCOUNT DOWM JAPANに出るぞって、当然モニターも必要だったからその事で「このバンド知ってる?」ってそのバンドの担当になるフリーランスのPAの方から連絡が来て。

PAがまだ付いてなかったバンドだったからもうそろそろ付けたほうがいいんじゃないかって時で、縁があって僕もチームの一員になることが出来た。

その同時期に違うアーティストも担当しだしたり、本当にこの時期からちゃんとPAって仕事をし始めたのかなと思う。

会社を立ち上げる

フリーは経験しときたかった

もともと自分の中での区切りみたいなものがあって、1つ目の会社ではイロハの”イ”くらいを学ばせて貰って、次の会社ではPAの人員が全然いなくていきなりいろいろ動かさなきゃいけないほどの立ち位置をやることになって。

当時30歳前で、自分的にはまだ年齢も経験も浅いと思ってたからそこは5年くらいでやめて。ただそこでは世の中だったりお金の流れも知れたからよかったんだけど。
それからフリーになって、7年。

フリーになるまでに担当させて貰っていた仕事は今もまだずっと続いてて、さらに増えていってはいるんだけど、自分の中でどうしてもフリーは1度経験しとかなきゃって思いがどこかに有った。

ただフリーランスって言っても、はじめからずっとフリーの人と、ライブハウス上がりのフリーの人と、会社を経験してからフリーの人と3つ大きく分かれるはずだと思っていて。

僕はその3つめのパターンの人間で、勝手な想像ではあるけども独特のシーンではあるからその中でやって行くのはどういう風になるのかなって不安も沢山あった。

耳が悪くなって、終わりだ

実際5年前と比べても今はフリーのPAの人口も凄く多い。5年前とか10年前の状況とはまた違う状況だと思うし、さらにまたこの2~3年で色んな環境の変化は起きていると思う。

でも35歳くらいにこの仕事量でこれからもやれるのかって考えた時、このままの考え方と動き方だと野たれ死ぬなって思った。

僕実は左耳を突発性難聴1回やっちゃって、右左それぞれがちょうど100だとしたら、突発性難聴をやってしまった左耳は83くらいまでしか回復していない。ワンポイントだけ聞こえずらい。今はそのポイントも左耳のマイナス17も自分でわかってるからそれを分かった上で調整をしている。

自分としてはそういう出来事もあって、このままフリーでやり続けた結果何の保証もなく、耳も使えなくなって終わっていくのは正直辛いなぁと思った。

Aクラス、Sクラスのアーティストさんになると、厳しい方ならツアー始まったらホテルの部屋は加湿器で何%以下にしちゃダメとか、飲み物も食べ物も決まってる。で、なるべく喋らない。
みたいな話もよく聞くし。

でもそれくらい徹底してるからあんなに声出るしいつまでもキー下げずに昔の歌が歌えるんだよね。そういう徹底振りとプロ意識は僕らももっと考えないとと思った。

あとは、人材育成をしたくて。

やっぱり老いっていうのには誰も逆らえないと思う。仕事で関わる上のPAさんたちが耳が悪くなって上手く作業できてないのを見てきたから、自分はそうはなりたくないって気持ちがすごいあって。

自分がそう言われないためにどうすればいいかって考えた時、下に技術を託すしかないと思った。自分が現場に行かなくても自分の伝えた技術が活かされる。
そんなこと思ってたら昔から親しくしてくれてるフリーのPAさんに声かけてもらって、よし、一緒にやろうって。会社作るきっかけとしてはそんな感じ。

今取締役って名前はついてるけど僕自身変わったところってあんまりなくて、ただ意識的に変わったのは今抱えてる社員への責任感かな。当たり前だけどもヘマができない。(笑)

PAとしての人生

PAとは

PAって常にアーティストの経験値より1つ上にいなきゃいけないと思う。例えばそのアーティストがQUATTROでライブをやる時にはもうBLITZ経験した子じゃないといけないし、BLITZやる時にはもうZepp経験してなきゃいけない。Zeppできてる時はホール、ホール行ったら武道館、その次へ次へって。

だってそうじゃないとやっぱりバンドには教えられないでしょ。俺も今日初めてなんですって緊張しているようだと何もできない。スタッフってそういうものだと思ってる。

本番への緊張で震える、口が渇く、飯が食えない。でも、それじゃダメ。だってアーティストなんかもっと緊張してるんだし。実際初めての経験は誰しもあるし、自分だってモロにそうだったけど。

そういうのはやっぱりどうやったって経験値が物を言ってしまうし。
いろんな場所で仕事することはPAとしてのスキルアップに繋がる。同じ場所ばかりでは新しい事への発見もなかなか難しいと思う。

まだ行ったことのないライブハウスへの楽しみ

本当にライブって場所とか環境によって全然違うし、それはPAとしての動きも一緒で。まあ諸先輩方からしたら全然青二才だけども、僕自身29歳で武道館をやらせてもらえたから割とスピーディーに進んできたと思うところはあって。

でもまだまだ行けてないライブハウスもたくさんあるからまあそこが逆に言うと面白いというか。

自分的に衝撃だったのが、幕張9.10.11ホールを合わせてやった仕事の次の日が神奈川のキャパ180人のライブハウスだったの。

搬入も5分で終わった。昨日搬出5時間かかったみたいな。(笑)
その落差が楽しめるようになるのも、現場で仕事する1つの醍醐味だし。

まだ知らないライブハウスでの音ってたくさんあると思うから、まだまだ頑張らなきゃいけないって思う。

何か物を持つより人を持ちたい

人材育成に力を入れていきたいっていうのはもちろんあるんだけど、これは完全に僕の個人的な考えで気づいたら将来的に40人くらいPAがいる会社になってたらいいなって。

フリーで頑張ってやっているセンスのいい人とか、将来を見ないようにしてがむしゃらに仕事してる人とか、上も下も関係なくみんな一緒にやりたい。
「どうぞ、フルラインナップです。ジャンル?全部できます。」みたいなね。あの人もこの人もいますよって。

だから受け口を広く持っていたいっていうのは1番にある。何か物を持つより人を持ちたいと思ってて。

大手PA会社やもうそれをずっと本業にしてきた人たちには勝てない物があるからどうしても。その時じゃあ僕らは何をもてるんだろうって考えた時、人かなって。

あと僕自身一時期会社勤めだったからわかるんだけど、フリーから見ると会社ってやっぱり構えちゃう存在で。一線あるというか。そういうのを無くしたいなとは思う。
僕自身の今後としては、やっぱり現状くらい耳が聞こえていたい。これからも。

そのためによく寝るとか、隠れてサラダ食うとか、若いやつと二郎食べに行くとか、頑張ってキャバクラ行くとか。(笑)
真面目に言うと鍼打ってリンパ流してあげたり、マッサージ。

老いは誰も止められないと思うけど、でもそれを受け止めつついつまでも争っていたいと思う。

PAになるための覚悟

「不純ですよ。」そう笑いながらPAになるきっかけを話してくれた佐々木氏。

安易な気持ちだったと言う彼だが、相当な覚悟がないと乗り越えられないような経験ばかりだったんじゃないかと話を聞いていく中で感じた。

様々な場面で苦労し、周りの人に助けられてきたと語った彼が言う「何か持つなら人を持っていたい。」という言葉の重みと責任感。

自分の今後のこともしっかり考えつつ、周りの人生も背負う彼のこれからの真面目でポップな動きにこれからも注目していきたい。

INFORMATION

株式会社ライブデート

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